仙台高等裁判所秋田支部 昭和53年(う)95号 判決
以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。
【説明】
本件は、他人の生けすから事故で逃げ出した鯉を捕獲した者及びその者からこれを買い受けた者の責任が問題とされた事案である。従来遺失物横領罪においては、遺失物等であるかどうかが争われた例は多いが、「他人ノ物」であるかどうかが争われた事例はあまり見当らない。本判決は、目的物が天然に棲息することの少ない色鯉であり、近くに飼養主が四人しかおらず、そのため捕獲時において誰の鯉であるか察知できたことなど回復請求が容易であつた事情をあげて、無主物ではないとした。特異な事例ではあるが、これに含まれている論点は実務上参考になる点があろう。
【判旨】
三次に所論は第二点として、本件のように網生けすから広大な湖沼に逃げ出した鯉は、帰巣本能を有しないので何処へ回遊して行くかは全く不明であり、飼養主がこの逃失魚を自力で回収することは不可能なうえ、同種同等の鯉は無限に存在し、仮りにこれが他人の建網などで捕獲されたとしても、自己が逃失させた鯉か否か識別できないことから、鯉の養殖業者は鯉が逃げ出すと同時にその追求を放棄し、回復を締めている事情にあり、これらの事実からすると、網生けすの鯉はこれから湖沼に逃げ出すと同時に養殖業者の所有から脱して無主物となると解すべきである。また直ちに無主物にはならないとしても、網生けすに養殖する鯉は民法一九五条にいう家畜以外の動物で、これを占有する者は占有を始めるとき善意でかつ一ケ月内に飼養主から回復の請求を受けなければその所有物を取得するうえ、その拾得については民法二四〇条の適用がなく、これを拾得したことを警察署長に届け出る義務がないのはもちろんのこと、飼養主から回復請求のないかぎり返還義務もないのであつて、家畜以外の動物を逸失した所有者のこれを回復する権利は極めて微弱な保護を与えられているのに過ぎないところ、被告人小野ら建網業者は県知事の許可を受け、正当な業務として湖沼の魚の捕獲に当たつているもので、かかる漁業者が漁により捕獲した魚はその捕獲と同時にその者の所有となることは当然と解され、識別も不可能で生存時間も捕獲魚のうち、これは天然のものであるから直ちに所有権を取得し、もし逃失したものであれば所有権を取得しないなどと区別することは全く実状を無視するものであり、以上のことからすると、後日所有者と捕獲者の間で民事上の解決をはかるのは別とし、網生けすから逃げた鯉は、無主物に準ずるものとして扱うのが相当で、いずれにしても刑法二五四条の客体にならないと解すべきである。原判決には破棄されるべき法令の解釈適用の誤りがある、と主張する。
しかしながらすでに認定のとおり、本件は遠藤剛太郎が八郎湖東部承水路に設置していた網生けすの一つに錦鯉を主体としこれに棒赤を混じえた色鯉約一、〇〇〇尾を養殖していたが、昭和五一年五月三一日網生けすの網が切れてその殆んどが承水路中に逃げ出し、同日その一部約六〇尾の色鯉が被告人小野の建網により採捕された事案であるところ、承水路に逃げ出した鯉をその養殖者が自力で手許に回復させることは殆んど不可能ではあるが、かかる色鯉が天然に棲息する率は僅かで、群遊して一度に建網に入ることは、近くの養殖業者の生けすから逃げ出た場合を除き事実上あり得ないことからすれば、天然に多数棲息する食用鯉(黒色)と異なり、捕獲した色鯉が何人の所有であるかは、他に養殖業者も同じころ同種の鯉を逃失させるなど特段の事情のないかぎり特定できるし、他の漁業者が捕獲してくれた逃失鯉を飼養主が回復を求めることは容易であり、鯉が広大な湖沼に逃げたからといつて、すべて直ちに無主物になるとは解されない。また網生けすに養殖する鯉は民法一九五条にいう人に飼養された家畜外の動物で、他人の逃失させた養殖鯉を占有する者は、その占有を始めるとき善意で、かつ逃失から一ケ月以内に飼養者から回復請求を受けないときには、その所有権を取得するしこれを占有するに至つたことを官に届け出る義務や所有者の回復請求がないのに敢えて返還するまでの義務がないことは所論のとおりであるが、養殖鯉を逃失させた者のこれに対する所有権は逃失より一ケ月の間なお存続し、その間これを回復する権限のあることも同条の規定から明らかなところ、大潟橋北側の八郎湖東部承水路で鯉を養殖している者は、遠藤剛太郎や被告人鎌田など四人の業者のほかなく、被告人小野は遠藤らの網生けすの近くに雑建網を仕掛けているのであつて、本件色鯉が建網に入つたのを認めたとき、右養殖者四名のうち誰れかの網生けすから逃げ出した鯉であることを直ちに察知できたのであるから、所有者の回復請求を受けないかぎりこれを返還すべき法律上の義務はないにしても、近くでともに漁業を営む同じ八郎湖増殖漁業協同組合の組合員として、これら四人の養殖業者に色鯉逃失の有無を確めるなどし、その所有者に回復請求の機会を与えるのが、同業者の信義にも副うところと解されるのであり、特定性のない真鯉は別とし、本件のような色鯉まで逃失者の所有権を直ちに否定して無主物あるいはこれに準ずるものとし、刑法二五四条の客体に当たらないとする所論は採用できないところである。
(野口喜蔵 吉本俊雄 西村尤克)